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June 19, 2004

セザンヌと呪物崇拝 《no.1》

 

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セザンヌ『自画像』/ビュルレ・コレクション蔵


 南仏のエクス・アン・プロヴァンスにはこれまで何度か立ち寄ったことがあったが、市街地の北のはずれ、シュマン・ド・ロープと呼ばれるゆるやかな勾配の坂道に面したセザンヌのアトリエを訪れたのは今回が初めてだった。
 セザンヌという画家はその足跡を辿ったところで、面白みが増すというタイプの人物ではない。ジョン・リウォルド編纂の『セザンヌの手紙』を読んだときも、告白文学の傑作とも言うべき名高い『ゴッホの手紙』に比べて、凡庸で退屈この上ない読み物という印象しか残らなかった。これはセザンヌの人生が、その表面上にかぎって言うなら、ドラマチックな要素など何もない、まさに平穏そのものだった事実に由来する。
「近代絵画の父」として仰がれるセザンヌは、その実生活の面ではごく平凡な「父」だったようで、南仏の資産家の家に生まれ、無名時代にあっても暮らしに困ることはなく、晩年には名声を得て、父親の遺産を必要としないほど高値で作品が売買されるようになった。妻を持ち、息子をもうけ、家庭人としても平穏な生涯を送ったセザンヌにあっては、ゴッホを襲ったような人生上の苦悩や葛藤など、ついぞ無縁だったように思われる。つまり、伝記映画の主人公には不向きな人物というわけだ。
 しかし、生活者としては凡庸であっても、画家としてのセザンヌが非凡であったことは言うまでもない。アンドレ・ロートの「初めにセザンヌありき』という有名な言葉は、このエクスの巨匠が二十世紀の絵画に与えた計り知れない影響のほどを十全に物語っている。ゴーギャンはこのエクスの巨匠から多くのものを学び、ついには自分が所有していたセザンヌの静物画を自らの作品に描き込むほどだったし、ゴッホのアルル時代の風景画に見られる丹念な筆跡は、セザンヌの一八八〇年代前半の作品のタッチに由来する。ナビ派のモーリス・ドニは『セザンヌ礼讃』という大作を描き、青年時代のマティスはセザンヌの『三人の浴女』を購入して自らの作品の手本にした。ピカソはキュビズムの理論的根拠の一つとして黒人彫刻とともにセザンヌの作品をとらえ、ブラックはセザンヌに倣って南仏のエスタックにまで制作に出かけている。言わば『セザンヌ主義』とでも呼ぶべき現象が二十世紀の美術界を津波のようにさらったわけである。


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セザンヌ『カルタをする人々』/オルセー美術館蔵


 話をエクスのセザンヌのアトリエに戻そう。
 このアトリエの入り口の前には一本のオリーブの大樹が立っている。セザンヌの良き話し相手だったガスケという人物の聞き書きによると、エクスの巨匠はこの大樹に人間のように話しかけ、ときには人間のように抱くこともあったらしい。「これは私の親友だ。私のことなら何でも知っている」と語ったそうである。
 実を言うと、セザンヌの足跡に興味がなかった私が彼のアトリエを訪ねてみようと思い立ったのは、このエピソードがきっかけだった。これは一種のフェティシズムではないかと、そんな突飛な考えが浮かんできて、凡庸なはずのセザンヌの人生に、にわかに興味が湧いてきたのである。
 フェティシズムとは岩石・人形・器物・動植物などに超自然的な呪力が宿るとして崇拝する古代の宗教形式の一つであり、日本では物神崇拝や呪物崇拝などと訳されているが、古代の宗教だからといって現代人には無得な感情と笑い飛ばすことはできない。フェティッシュという言葉には「お守り」とか「マスコット」の意味がある。またフェティシストと言えば、精神病理学でいうところの切片淫乱症患者、つまり異性の装身具などを性欲の対象にするいささか危ない趣味の持ち主のことだ。
 
 大樹に話しかけ、それを自分の親友だと呼ぶセザンヌの態度には、あきらかに呪物崇拝の影響が見て取れる。
 実際、セザンヌの生まれ育った南仏のプロヴァンス地方は、古代のサルウィ族の時代からの習俗の名残りだろうと考えられているが、古くからフェティシズムのメッカとして知られている。
 この地方の民話集をひもとけば、いたるところに「マスク」と呼ばれる魔法使いが登場する。マスクは人間や家畜に魔法をかける力を持っており、赤ん坊が乳を飲まなくなったり、馬が理由もなく立ち往生したり、猟犬の鼻がきかなくなったりしたら「マスクにかけられたのだ」と考えられてきた。マスクの魔力と戦うためには、自然界の秘密に通じていると信じられてきた羊飼いに「マスク祓い」をしてもらうか、あるいは魔よけのための様々な儀式を踏まなければならなかった。それらの儀式とは、着物を後ろ前に着たり、火の中に塩を投げ込んだり、十字を切りながら呪文を唱えたりなどで、こうした習俗は今もプロヴァンスでしばしば見かけられる。
 また、マスクと並んで人々が怖れていたもう一つの魔力に「邪眼」というものがあり、この目に見つめられると災いが起こると信じられ、邪眼から家を守るにはガラス石を壁に塗り込めるか、魔よけのアザミを玄関に打ち付けるか、あるいは動植物に宿っている霊力を借りるか、つまり良い魔力でもって悪い魔力を封じ込めるという様々な「祓い」の手段を講じなければならなかった。

《To be continued./》